父は忘れる(校長だよりN037)

 坊や,きいておくれ。おまえは,小さな手に頬をのせ,汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて安らかに眠っているね。お父さんは,一人でこっそりおまえの部屋にやってきた。今しがたまで,お父さんは書斎で新聞を読んでいたが急に息苦しい悔恨の念に迫られた。罪の意識にさいなまされておまえの側へやってきたのだ。

 

 お父さんは考えた。これまでわたしはお前にずいぶんつらくあたっていたのだ。お前が学校へ行く支度をしている最中にタオルで顔をちょっとなでただけだと言って叱った。靴を磨かないからと言って叱りつけた。また,持ち物を床の上に放り投げたと言っては怒鳴りつけた。今朝も食事中に小言を言った。食べ物をこぼすとか,丸飲みするとか,テーブルに肘をつくとか,パンにバターをつけすぎるとか言って叱りつけた。それから,お前は遊びに出かけるし,お父さんは停車場へ行くので,いっしょに家を出たが分かれる時,お前は振り返って手を振りながら「お父さん行ってらっしゃい。」と言った。するとお父さんは,顔をしかめて「胸を張りなさい。」と言った。

 同じようなことが夕方に繰り返された。わたしが帰ってくるとお前は地面に膝をついてビー玉で遊んでいた。長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家へ追い返し友達の前で恥をかかせた。

「靴下は高いのだ。お前が自分で金を儲けて買うんだったら,もっと大切にするはずだ!」

これがお父さんの口から出た言葉だったのだから我ながら情けない。

 

 それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいた時,お前は悲しげな目つきをして,おずおずと部屋に入ってきたね。うるさそうにわたしが目を上げると,お前は入り口のところでためらった。

「何の用だ。」とわたしが怒鳴ると,お前は何も言わずにさっとわたしの側に駆け寄ってきた。両の手を私の首に巻き付けて私に接吻した。お前の小さな両腕には神様がうえつけてくださった愛情がこもっていた。どんなにないがしろにされても,決して枯れることのない愛情だ。やがてお前はばたばたと足音を立てて,二階の部屋に行ってしまった。

 

 ところが坊や,そのすぐ後でお父さんは突然何とも言えない不安に襲われ手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。何という習慣にお父さんはとりつかれていたのだろう。叱ってばかりいる習慣-まだほんの子どもに過ぎないお前にお父さんは何ということをしてきたのだろう。決してお前を愛していないわけではない。お父さんはまだ年端もゆかないお前に無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。

お前の中には善良な立派な真実なものがいっぱいある。お前の優しい心根はちょうど山の向こうから広がってくるあけぼのを見るようだ。お前がこのお父さんに飛びつきおやすみの接吻をした時,そのことがお父さんにはハッキリと分かった。他のことは問題ではない。

 お父さんはお前に詫びたくてこうしてひざまずいているのだ。お父さんとしてはこれがお前に対するせめてもの償いだ。昼間こういうことを話してもお前には分かるまい。だが明日からはきっと良いお父さんになってみせる。お前といっしょに喜んだり,悲しんだりしよう。小言を言いたくなったら舌をかもう。

そしてお前がまだ子どもだということを常に忘れないようにしよう。

                           (リヴィングストン・ラーネッド「父は忘れる」より)

 

*『お前がまだ子どもだということを常に忘れないようにしよう』

 

親子の関係だとしても,それを子どもと教師の関係に置き換えて読んだとしても,いろいろと考えさせられます。