長年教師をやっているのでたくさんの教え子が出来ます。毎年のように増えていきます。
大きくなった教え子もいます。教師という同じ職に就いている子もいます。研究会などであって声をかけられるとかつての拙い仕事を見透かされているようで照れくさい気さえします。
*多くの教え子を見ていて思うことがあります。
それは小学校時代に「勉強が出来るか,どうか」ということは,その子の将来にとっては,ほとんどどうでもいいということです。
幸福になったか,不幸になったかという点から考えれば,これは「全く関係ない」と言えるでしょう。
仮に勉強が出来て(いわゆる)良い学校(!)へ行った子の良さを一ついうならば,それは職業選択の幅が広いということと多くの人と巡り会えるチャンスが多いかもしれないということでしょうか。
でも,これさえ人によります。
*自分に向いた道があり仕事があるなら,勉強が出来たかどうかはほとんどどうでもいいということです。
テストで100点を取ろうが取るまいが大した問題ではないということです。
しかし,「100点を取れる努力をした」ということはほめられていいでしょう。例えば,漢字などは練習した子は出来るし,練習しない子は出来ないものです。そして,多くの教師がおそらく「練習した子」つまり「努力した子」を「努力しない子」よりいくぶん高く評価することでしょう。
それは「努力する」ということは,どこでも通用する力だからです。他のことにもきっと努力をするだろうと思えるからです。
ただ,「いくぶん高く」とあるのは,人間というのはこんな程度のことで云々出来るほど単純ではないからです。人間とはもっと幅広く,奥深い生き物のはずです。
*しかし,子どもと接していて学業の成績を抜きにして「すごい!!」と思える場面に出合うことが時にあります。高く評価することがあります。
担任をしていた時の話です。
理科のテストをしました。テストが終わった子からテストを提出するよう指示しました。子どもたちは比較的スラスラと解いていたようでした。一人の子が提出をすると次から次へとテストを終えた子が答案を提出していました。
ある子がテストを出しに来た時,その子は乱雑に積み重ねられた答案をきれいにまとめてから自分の席に戻っていきました。
さりげない動作でした。
*100点を続けて10回とってもすごいとは思いませんが,テストを出しに来たその慌ただしさの中で乱雑に積み上げられたテストを両手でトントンと整理していったその子の行為はすごいと思いました。
自分の子供も同じことができるといいなぁと思いました。