『私を含めて教師は,自分の教育的熱心さを省みる謙虚さに欠けている。熱心さは免罪符にならないのである。「愛のムチなら何でもいい」と自分で自分におぼれているのである。
問題なのは熱心さではない。教育を仕事にしている人間が,子供に熱心であるのは当たり前である。プロならば,言うのも書くのも恥ずかしいぐらい当たり前のことである。 (中略) 問題なのは,子供にとって価値ある熱心さであったかどうかである。』
(向山洋一著 「教育格言集 ~プロ教師への努力の源泉~」)
*教職というこの仕事に対して,いつも謙虚でありたいと思っています。
上手くいかなかった時,子供が思うようにならなかった時,それは自分の仕事に甘さがあったと思える教師でありたい考えたい,いや考えられる教師であり続けたいと考えています。
*以前学級担任をしていた時に,帰りの会で子供たちとある約束していたことがありました。
それは,「帰りの会の時に,雨が降っていたらいつもの帰りの会のプログラムはやめて,恐い話を教師がする」というものでした。
一人残らずとは言いませんが子供たちは恐い話が大好きです。
担任のつたない話ではありますが,当時雨の日を楽しみにする子供も少なくはありませんでした。
*当時の話を続けます。6校時が終わり,帰りの会。
窓の外で雨が降っていることが分かると,さあ子供たちはせわしく動きます。
各自が帰りの支度をサッと済ませます。
ある子は,黙っていても教室の暗幕を閉めます。
ある子は,頼んでもいないのに教室の電気を消します。
これを自主性と呼べるかどうかは分かりませんが(笑),こんな子供の積極的な動き,結構好きでした。
*授業中,よそ見していたり,手いたずらしていたり,こんな子をよく注意してきました。
時には,かなりきつく注意したこともありました。
でもそれって考えようによっては,「教師の話に魅力がないから」ではないかとこの雨の日の帰りの会を思うにつけ感じるようになりました。
子供たちがよそ見をしたり,手いたずらをしたりするのは,教師側に問題があるのでは,と思うようになりました。
もちろん,単に子供のお行儀の悪さ(?)もあるかもしれませんが,まずは自分の仕事を疑ってみるという姿勢は大切だと感じています。
私たちは,年齢を重ねても常に伸びしろのある仕事に就いている(まだまだがんばれる余地がある),そう思いたいものです。
*さあ,新年度がスタートしておよそ3週間,本格的に学習に取り組んでいます。
学年始めの【張り切る気持ち】を子供も教師も大切にしたいものです。